北海道斜里町の英語教室

過去の雑記集

 Blog

「Blog 現象」(the Blog phenomenon) なんだそうだ。Blog は‘Web log’からできた語で、「ウェブ日記」などのように、定期的に更新した投稿を載せるウェブページのことらしい。 Blog は動詞としても使われて、Blog することを‘blogging’、Blog する人を‘blogger’という(いちおう英語講師なので、オヤクソク)。

となると、ここのページも(ほとんど更新してないが)いちおう Blog だし、‘HES DIARY’も Blog の端くれとなるのだな。「みんな読んでくれ~」と大声で言えるようなシロモノではないにせよ。

日本でも日記サイトは人気があるようだが、どこでもそういった状況は同じというのがおもしろい。同時に、ウェブのあちこちに Blog に関する評論があふれている。曰く、「本当に読むのに値するのはごくわずか」、「手っとり早く人気者になりたい現象」、「自己満足」、「素人ライターの勘違い」、「ネコの写真はかんべんしてくれ」…などなど。このあたりも、日本でよく言われているのと同じだな。

でも、インターネットのおかげで、書くことの楽しさを覚えた人も多いはずだ。私など、パソコンがなければ、このように文章を書くこともほとんどなかっただろう。もともと筆無精野郎だし。「書く」ことで得られるメリットも少なくない。読んでくれる人がいてもいなくても、とりあえずは「自分のため」でいいのではないだろうか。で、人気サイトにしたければそれなりの戦略を考えろということだろう。

オススメの英語 Blog サイトをひとつ。
kristen’s japan” だ。日本在住のアメリカ人である Kristen さんが、日々の出来事などを淡々と綴っている。略語やくずれた英語が氾濫している Blog が多い中で、ここのサイトの英語は実に綺麗。見習うべき英語の見本という意味でも、一見の価値のあるサイトだ。

2002年2月25日

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手術だぁ

右の下アゴに豆粒大のしこりが…。先週あたりから急に大きくなってきたので網走の病院へ。ひとりで病院へ行ったことなんてほとんどないので、妻に手順を教えてもらう。なるほど、システマチックなのね。病院に着くとなにやら急に緊張してきた。皮膚科で受付をすると、看護婦さんが「どこですか~」と尋ねてくる。「ここです」と指さすと、「あ~」とすかさず何かを納得したような返事。え、なに、そのリアクション? なんか不安になるじゃないの。ガチガチになりながら診察室へ。若くて元気のありそうな先生が患部をグリグリしながら、「ああ、これは99%…」…はい、99%なんなんでしょう。ドキドキ。「…ゴミがたまったものか、あるいは傷か何かに反応してできたものでしょう」ゴミって何?と考える余裕もなく、とにかくホッ。「悪いものじゃなさそうです」またまたホッ。丁寧に説明してくれたのだが、舞い上がっていたのか、あまり頭に残っていない。「で、芯があるので、手術で摘出するのがいいでしょう。傷がちょっと残るかもしれませんが、どうなさいますか?」どうなさいますかって言われても、こんなモノを後生大事に顔にくっつけておくわけにもいかないので、そりゃお願いしたいっす。「今、手術がちょっとたて込んでるので、8月の中旬以降になるかな…?」「今日なら午後1時から大丈夫ですよ」と、看護婦さん。「あ、ぜひお願いします」たまたま巡り合わせのいい日だったようだ。なんてラッキーなんだ。

てなわけで、手術をすることに。時計を見るとまだ午前9時を少しまわったところ。「じゃ、1時までおサボりしててくださ~い」と看護婦さん。は~い、おサボりしてま~す。といっても、時間のつぶしようがないので、いったん家に帰ることに。ここんとこ、あまり運転してなかったので、いいドライブになるぜ。原生花園がきれいだ。

1時にまた病院へ。手術なんて、小学校2年のときに足をケガして以来だ。またまた緊張。ドクターが手術の手順を丁寧に説明してくれる。局所麻酔をチクチク。へー、すごい、すぐに効くのね。「麻酔が奥の方まで効いてない場合がありますので、痛かったら言ってください」ドキッ! その後、「もし具合が悪くなったらすぐに言ってくださいね」と看護婦さん。え、何?と一瞬ビビるが、なるほど、麻酔のアレルギーなんてのもあるもんね。わたしゃ大丈夫なはずだ。…「これから切開しますね~」「今、デキモノの裏をさわってます。痛くないですか~?」と、ステップ毎に先生が声をかけてくれる。親切だ。が、口をちゃんと開けることができない状態なので、返事もままならないのよ、これが。「h、hい…」腹話術を勉強しとくんだった。痛みは見事にないのだが、ブチっと肉を切る音というか感じがわかるのがちょっとキモチワルい。

……そんなこんなで無事に終了。患者ときちんとコミュニケーションをとろうとする医者の姿勢に感激。看護婦さんも親切。いい病院だね、ここ。

待合室で待っていると、看護婦さんが。「これからお仕事ですか?」「はい」「どんなお仕事でしょう?」「えーと、塾なんですが」「あ、先生なんですか…あの、今日は口をあまり動かさずに安静にしていたほうがいいんですが」「え、しゃべっちゃいけないんですか?」「はい、今日のところはあまり話さないようにしたほうがいいです。口をあまり開けずに少し話す程度ならいいかもしれませんが…」(やっぱ、腹話術をマスターしておくべきだったか)てなわけで、授業ができないことになってしまった。ともかく帰ろう。原生花園がやけにきれい。

教室の黒板に「今日は、センセーが口をあまり開けないので自習。スマン」と書いておく。休み時間にそれを見つけ、「先生、早くよくなってね!」「私たちがついてるよ~」などと黒板に書いてくれたクラスも。ありがとう。かわいいやつらだ。しゃべりの商売がしゃべれないのはツラいね。でも、ちゃんと自習ができる生徒、できない生徒などがよ~く観察できたりして、これはこれでおもしろかった。

幸い、術後の痛みも腫れもなく、一週間後の抜糸を待つだけだ。ともかく、ワタシは「アンブレイカブル」でなければならないのだ。何いってんだか。

2001年7月14日(土)

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HES珍名列伝

ウチの教室では、生徒たちに英語のニックネームをつけることになっている。基本的には各自が自由に決めてよいのだが、いきなりニックネームを考えろといわれても大変だろうから、ほとんどは最初の授業のときにこちらが例示した名前から選ぶことになる。もちろん、自分でユニークな名前を決める生徒もいるし、後から変えるのもアリだ。開設以来だから、もう長いことやっているのだが、その間に、変わった名前もたくさん登場してきた。記憶をたどりながら、特に印象に残っているものをピックアップしてみよう。

おもしろい名前の第1号というべきモノが、教室をはじめた年に入ってきた“チェリー(Cherry)”だ。女の子ではなく、中1の男の子である。確か、「うる星やつら」というマンガの中の「錯乱坊」というキャラクターからとったのだった。この生徒、ふだんはひょうきんなのだが、集中力がものすごく、授業中の肝心な場面では、射るような目つきでこちらを見ていたのを思い出す。結局、この子は中3まで在籍し、東京の難関私立高に合格してしまったのだった。名前もキャラクターもやることもユニークなヤツだった。

“ピーマン(Peaman)”というのもあった。英語の綴りでいえば、「豆男」ということになる。ひょうひょうとして、なかなか優秀な生徒ではあった。なぜ“ピーマン”なのかは、未だに謎である。本人自身もわかっていなかったのかもしれない。
それから、“ベティー(Betty)”。普通の名前だと思うでしょ? ところがどっこい、男子生徒なのである。本人の名誉(?)のために言っておかなければならないが、あちらの気があるということは全然なく、どちらかといえば体育会系タイプの生徒だった。が、これもまた、なぜ“ベティー”なのか、本人は決して口を割ろうとはしなかった。それでいいのだ。

なかには日本人の名前をニックネームにした生徒もいる。“タロー(Taro)”だ。日本語の名前では意味がないので、普通は却下なのだが、その当時、教科書に“Taro”という日本人キャラクターが登場していたので、やむなく認めたのだった。というより、こちらもおもしろがっていたのかもしれない。

最近では、“クリントン(Clinton)”を挙げなければならないだろう。この生徒、後から“キャリントン(Calinton)”に改名し、今は縮めて“キャル(Cal)”になっている。将来が楽しみな男だ。で、その弟も今年入ってきたのだが、兄の影響を受けてか、“ブッシュ(Bush)”を名乗ってしまった。来る前から決めていたらしい。しかし、現在、ちょっと後悔しているらしく、改名を考えている模様である。

ユニークな名前はまだまだあるのだが、今回はこれくらいにしておこう。また機会があったら、書いてみることにする。
2001年4月28日(土)
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塾講師は体力勝負!?

ちょっと風邪気味かなあ。
私はどちらかといえば風邪をひきやすいタイプだと思う。なんといっても寒さに弱い。寒さに対する耐久力という点では、名古屋出身の妻の方がはるかに上だ。
教室をやっていると、一年を通して生徒のだれかが必ず風邪をひいているような感じで、鼻をぐじゅぐじゅさせたりしている。だから授業後のうがいは欠かせない。最近は花粉症系も多いみたいだけど。で、風邪に弱い(と思っている)私は、すぐに影響を受けてしまう。精神的なものもあるのかもね。

ところが、風邪だ~!となっても、なぜか熱を出して寝込むほどには悪化しないのだ。これは不思議だ。風邪で寝込んで授業に穴をあけたのは、教室をはじめて以来まだ一度だけである。それも、2年目ぐらいの時で、もうかなり昔の話だ。そのときは急遽、自習用のプリントを用意してしのいだのだった。

医学的なことはわからないけれど、生徒たちがせっせと(?)風邪の菌を運んでくるので、それに対する耐性ができたのだろうか。それとも、プロ意識のなせるワザか。なんちって。

だが、塾講師にとって今は一年の疲れがどっと出てくる時期だ。気をつけようっと。
2001年3月2日(金)
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情報交換型ホームページ

ホームページを生徒たちに公開して一週間がたとうとしている。早いような遅いような。ネットの中の時間は実時間の3倍とか5倍とか10倍…(何倍だったっけ?)の感覚で速く進んで行く、というようなことがよく言われるが、確かに、サイトを立ち上げたのはもうずいぶん前のような気がしないでもない。

ウチの生徒たちって普段からインターネットにアクセスしているのだろうか、という興味を持ちながらスタートしたところもあるのだが、これまでの感想としては、思ったよりも反応があるぞというところか。パソコンやネットの初心者であれば、たとえば掲示板に書きこむだけでもたいへんな作業だろう。それをサラリとこなす子がいたのは、なんとも心強い。掲示板については、まずは“ラヴァーズ”君に感謝しなきゃね。(と言っても、ヤツはここは読まないんだろうなあ)

で、問題の「サイトのコンセプト」だが、これは少し見えてきた。「羽田野英語教室」というタイトルのホームページなのだから、普通はビジネスがらみだと思われるだろう。それは当然だし、まあ、全くないとはいえないのだが、自分の中ではメインではない。小さな町である。宣伝をして、大きな影響が出るわけでもないのだ。それよりも、情報交換型のホームページをめざしたい。もちろんキーワードは、「英語」とか「塾」といったことになるが、情報は多岐にわたってかまわない。ウチに通ってくる生徒たちと他の地域の生徒たちとの交流ができてもおもしろいと思う。

そういった意味では、ユニークなホームページになりそうだ。実際、うまくいくかどうかはわからないけれど。
2001年2月22日(木)
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ネットの可能性

斜里町の家庭のパソコン普及率ってどれくらいなのだろう。教室に通ってくる生徒たちのインターネット環境についても、そういえばあまりよく把握していないな。授業中にホームページの URL を教えたときの反応からすると、三分の一か四分の一くらいだろうか。i-modeは、かなり普及しているみたい。

インターネットは、地方に住む不便さをいろんな面で画期的に変えてくれる可能性を持っている。実際、かなり便利になったのだけれど、こちらはまだ町内にアクセスポイントがあるのは OCN だけだし、最近陰が薄れてきたように見える「フレッツISDN」でさえいつになるのかわからないような環境ではある。こういうことこそ田舎から優先的にやってほしいものだと勝手に思ったりもするが、まあ、そんなわけにもいかないだろう。

教室の方も、将来はネットを利用していろいろやってみるとおもしろいかなと考えているが、今のところは、連絡はEメール「でも」OK ってぐらいかな。ホームページを見に来た生徒たちが何かを感じたり、考えたりしてくれたらいいと思う。もちろん、アクセスできない生徒たちのことも考慮しなければ。
2001年2月17日(土)

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ホームページ開設!

あれよあれよという間に、教室のホームページを作ることになった。

以前から、漠然とではあるが、羽田野英語教室のホームページを「そのうち」作ろう、とは思っていた。しかし、こんなに早く「そのうち」が実現することになろうとは、自分でも予想外だった。と言っても、これは自分から仕向けたことなのだけどね。すべてのはじまりは、ちょっとしたきっかけからだった。「流れ」とはおもしろいものだと思う。ちょっとしたきっかけがあり、その時点では特に何も意図していないのだが、それが急展開して大きなものになっていく、というのはよくあるパターンなのではないだろうか。地元で英語教室を始めたのも、そんな感じの「流れ」があった。

しかし問題は、「内容」である。速攻で器ができたのはいいけれど、内容がともなわなければなんにもならない。更新もちゃんとしなければいけない。こりゃたいへんだぞ。このページの「メモらんだむ」というタイトルの付け方も、なんだかいいかげんな感じだしなあ…。
ともかく、サイトのコンセプトもあいまいなままのスタートだが、徐々に充実させるようにしていかなければ。

教室のみんな、見に来てくれるかな~?
2001年2月15日(木)

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生徒の名前

私の教室の生徒は、小学生から高校生まで。加えて大人も少しいる。とにかく英語を学びたい人を対象にしており、クラスによって指導内容もいろいろだ。

一つ共通しているのは、大人をのぞいて、すべての生徒に英語のニックネームをつけていることである。もともとは英語教室の雰囲気作りのためだった、と思う。この空間にいる間だけは、お互いに英語の名前で呼び合う。そうすれば、少しは英語を勉強しているような感じがでていいんじゃないかなと、深い考えもなく決めたような気がする(もうかなり前の話なのであまりよくは覚えてないんだけどね)。その割には授業は日本語中心でやってたりするのだが、まあ、それはそれということで。

この英語のニックネーム、英語の雰囲気作りだけにとどまらないメリットがある。

本名で呼ぶ場合、呼び捨てにするか、「~くん」「~さん」をつけるか、名字で呼ぶか名前で呼ぶか、考え始めるとこれがけっこうむずかしい。他の先生たちはどうなのだろう。少なくとも私は迷ってしまう。

その点、英語の名前だと、そんな悩みはなくなる。名前のままストレートに呼べばいいのだから。厳密に言えば呼び捨てということにはなるのだが、そこは言葉と文化のあやの違いである。それに、英語の名前で呼ぶことで、世間のしがらみというかなんというか、そんなものからも解放されるわけだ。なんて、そんなたいそうなものでもないが。実際、授業中、私は生徒の本名を意識していない。

実は、ふだん生徒を英語の名前で呼ぶことで、本名を把握するのがおぼつかなくなる傾向が、私にはある。これはデメリットにもなりうるかな。

いや、まったく覚えていないというわけでもないのだ。例えば、保護者の方から「~ですが…」と電話が来た場合、それが誰なのか、どの生徒なのかはすぐにわかる。これは問題ない。確かに問題ないのだが、逆にこちらから生徒の本名を言うのが、ちょっと、いや、かなりアブナイのだ。

これはふだん本名で呼んでないからだと言われてもしかたがない。そんなことを生徒たちもうすうす察してか、「センセー、Maria の本名わかる~?」などといきなりふられてしまうこともある。

あ、言い忘れたが、生徒たちは私のことを「センセー」と呼ぶことが多い。別にそう呼べと言っているわけではないのだが、しょうがない、自分は教室内では「センセー」という「名前」なのだと考えることにしている。
もともと私は人の名前を覚えるのが苦手である。おまけに顔を覚えるのも苦手ときてるから、困ったもんである。だから、英語のニックネームであっても、覚えるまではけっこうプレッシャーがかかる。

初年度の小学生クラスでは、ネームプレートにそれぞれニックネームを書いてもらって、授業中は机の上に置くことにしている。それで徐々に名前と顔を一致させようというわけだ。しかし、いつまでも置いておくわけにもいかないので、だいたい2、3ヶ月くらいをめどにかたづけることになる。その後がけっこうスリリングだ。

また、ちゃんと名前を覚えているつもりでも、ある時、突然、その名前がでてこなかったりすることもある。これはごまかすのが大変だ。いわゆる「ど忘れ」ってやつね。あ、これはトシのせいもあるかな。はは。いずれにしても、人の名前を言えなかったり、まちがえたりするのは非常に失礼なことだ。なんとかしなければ。

まあ、そんなしょうもない苦労をかかえながら、英語のニックネームに関しては、もはやウチの教室にはなくてはならないものになっている。学校でもニックネームで呼び合っている生徒たちもいるようだ。今後もよほどのアクシデント(どんな?)がないかぎり、続けていくことになるだろう。

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英語を使ういやらしさ

英語を教えている私が言うのもなんだけど、世間ではやけに英語が氾濫してません?

最近特に気になるのが、テレビCMの中のナレーションにでてくる英語。ネイティブが英語でしゃべり、字幕でもでるのならまだともかく、日本人が日本語でしゃべってるCMで、やたら英語をいれているものが多いような気がする。言葉は悪いが、「バッカじゃねーのー」と思ってしまう。

誤解のないように強調しておきたいんだけど、カタカナ英語のことを言っているのではない。

もともとは英語であっても、日本語の中に取り込まれ、日本語式の発音になり、意味もそれらしく決まったら、それはもはや英語ではなく日本語だといえる。意味不明に陥る心配がないのなら、どんどん使えばいい。

日本語なんだから、日本語として、日本語の発音で言えばいい。書くときだって、たとえば「v」も無理に「ヴ」にしないで、「ブ」でもかまわないと思う。

あとは使う場所をわきまえればいいだけの話だ。

また、発音はもとより、たとえオリジナルの意味が変わったとしても、それが日本語として立派に機能するのなら、それはそれでかまわないんじゃないかと思う。ことさら、「この英語のもともとの意味は…なんたらかんたら」と蘊蓄をかます必要もないだろう。ちょっと乱暴かな。

気になるのは、日本語のリズムでしゃべっている合間、合間に、英語を連発するパターンの方だ。

「年に一度の大感謝祭!Now,on sale! 開催は11日まで!Check it out!!」とか、そんなことなんでいちいち英語で言うの?ってやつ。これがとってつけたようなしょうもない文法ミスの英語だったり、焼酎の宣伝だったりした日にゃ、さらにコケる。ひどいときにはほとんど英語ばっかで、なんなんだ~、ここはドコ、私はダレ、ってのもある。

ただ、変な話かもしれないけど、歌詞だったらなぜか気にならないんだよね。これは歌を聴くとき、歌詞に注意が行くか、リズムとかメロディーの方により注意が行っているかの傾向の違いによると思うんだけど。

あと、オヤジ系に多いと思うんだけど、話の最中に英語の名前などが出てくると、そこだけ無理に英語っぽく発音しようとするヤツ。

「…でですね、いわゆる WWW、あ、これは正式には World Wide Web なんですが…」の“World Wide Web”の部分をなんだか不自然に英語読みしようとする。自分ではうまいと思って発音してるんだろうけど、そういうのって、決まって「そんな無理して発音する必要あるの?」というシロモノなんだよね。なんかいじましさすら感じるな。

あの小林克也氏だって、日本語で話してるときは、たとえ英語名だって日本語のリズムで通してるもんね。

・・・とかなんとか偉そうなことを言ってるけど、ここのサイトだってタイトルは英語名だし、あちこちによけいな英語があるぞって? …えーと、それは、その~、つまり、ここは英語教育に関するサイトで、だから、なんというか、あの~……

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上達のプロセス

何かに上達する過程というものに、仕事柄とても興味を持っている。上達した、という状態になるためには、どんなことをし、どんな過程を経ればよいのか。

分野によっていろいろだろうけど、英語の場合はどうだろう。

英語力の伸び方は、徐々に、というよりは、ある段階を経て一気に、というパターンで進むような気がする。それまで表面には出なかったけれど自分の中で徐々に蓄積されていったものが、ある段階で、あるいは何かのきっかけで開花する。その後また潜伏期間があり、しばらくしてまたブレイクし、レベルが上がって行く。そうそう、RPGでレベルが上がったときに似ている。

「○△はレベルが上がった」

私自身、そのようなことをはっきりと自覚できたことがこれまでに何度かある。

一回目は中学3年生になった時。急に英語ができるようになった。別に猛勉強をしたわけではない。が、なぜか得意科目になった。まあ、テストでいい点数がとれる、というだけのレベルだったけど。

二回目は高校3年生の秋頃。長文がわかるようになった。このときは、夏休み中に長文の問題集を一冊、自分としては珍しくやりとげたことがきっかけになったと思う。単語力もそれほどではなく、長文を前にすると恐怖心もあったのだが、知らない単語をものともせず、なぜか内容をつかめるようになった。

三回目は大学1年の終わり頃。これは強烈だった。なんと、朝、目を覚ましたら英語が話せるようになっていた!というとちょっとオーバーだけど、確かにそんな感じだった。

そして四回目は英語教室を始めてまもなくの頃。文法が「実感」できるようになった。同時に、すべてが系統だって見えてきた。

その後は……、そういえば噴火してないな。ああ、学生時代は英語を話すのは得意でも書くことは超苦手だったが、今はそれほどでもない、かな。といっても、大したレベルじゃないぞ~。こりゃいかん。長いトンネルに入っちゃったかな。

自分自身の拙い体験ではあるけれども、それぞれが理由もなく起きたわけではないことは確かだ。それまで何の成果もないような感じで進んで来たものの、実は内部ではふつふつと煮えたぎるものが形成されて行き、それがひとつにまとまって爆発したのだろうと思う。あきらめずに、こつこつと基礎を固める作業もやはり必要だろう。

今、教える立場になって、そういった爆発を誘導してあげられるような指導をめざしたいと思っている。英語の「仕組み」が見えやすい授業を心がけたい。生徒の中に蓄えられてきたパーツが、生きた形でひとつになるように。

ありゃ、そういえば、長年やってるけど、教え方の上達度がブレイクしたことってあったっけか……。

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塾講師のナゾな生活

「センセー、昼間なにやってんの?」と生徒たちからよく聞かれる。

彼らにとって、私の授業前のプライベートな生活は興味津々の対象らしい。

「なにって言っても、いろいろだよ。授業の準備とか、いろいろね」

塾講師の生活って、やっぱり外から見るとナゾなんだろうな。

塾や塾講師といっても、ひとくくりにはできないほど多様だけれども、基本的には学校の授業が終わってからの商売だ。まさに、”after-school school” 。午前中はフリーで午後から仕事ってパターンが多いだろう。

私の場合は住まいと教室が同じ建物の中にあるから、「通勤」という概念がない。講師も雇わずにひとりだけで教えているから、経営の煩わしさもない。経理は妻にまかせている。お気楽といえばお気楽。

だから人から見るとこんな感じになるかな?
「朝寝坊ができていいですね」
—はい、そのとおりっす。
「授業が始まるまではヒマなんでしょ」
—はい、ヒマに「したいと思えば」いくらでもヒマにできます。

授業はだいたい4時頃から9、10時頃まで。その間が純粋な仕事時間ってことになる。

でも、それ以外の時間がヒマってことは、もちろんない。授業のこと、生徒のこと、教室経営のこと・・・考えたり、やったりしなければならないことは山ほどある。忙しいときに限って、こんなホームページを作ったりなんかして自分の首をしめてるんだけど(笑)。

それはともかく、いいかげんにやっていたら、たちまちボロがでてしまうだろう。どんな仕事にもそれは言えるけどね。

授業前は今でも緊張するし、自分で「いい授業ができたぜ!」と思えることは一年の中でほとんどない。その意味ではシビアだ、この商売は。

一日の中で本番(=授業)が始まるのは遅いけど、それだけに、それまでの物理的・精神的な拘束は大きい。一日の仕事が終わらないことには、本当の開放感は得られないしね。

だから、“9-5”の生活にあこがれることもある。5時に仕事が終わって、「さあ、飲みに行こうぜ~!」なんて、いいよなあ。って、オレは酒が飲めないんだ。

でもまあ、好きな英語で食わせてもらってるんだから、文句は言えない。私なんかまだお気楽なもんで、一日中ハードに働いている塾の方々もたくさんいるだろう。

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日本人の英語力(1)

「日本人は中学、高校、さらには大学で英語を学ぶのに英語が話せない」
---日本人の英語力について語られるときのお約束のセリフである。だから「日本の英語教育はおかしい」となり、「文法は必要ない。だいたい、母国語をしゃべっているときには文法なんて意識してないでしょ」となるわけだ。

確かに、文法を知らなくても日本人なら日本語を不自由なく使いこなせる。日本語としておかしいところはちゃんとわかるし、そんなことは自然に身に付いている。「文法」なんて堅苦しいものは必要ない。文法的に説明できなくても、日常生活で困ることもない。

そうか、それじゃ、英語も文法の勉強を一切なくして、会話だけやってればいいんだ。そうしよう、そうしよう!イエイ!

と、単純に行ければいいんだけど、やっぱりそんなわけにはいかない。

「外国語」として英語を学ぶ以上、日本語を「自然に」身につけるのと同じ環境を作るなんて無理だからだ。時間的なハンディはとてつもないほどの開きがある。それに、ここは、二カ国語以上が日常で自然に飛びかっている環境でもない。まあ、英語は多用されているけれど、それはあくまでもファッションの域を出ず、意志疎通のためにやっているものでもない。

そう、英語は「外国語」なのだ。

日本語環境べったりで育ってきて、そして英語をおもむろに勉強し始める。しかもまわりの環境は相変わらず日本語。母国語と同じ条件で考えられちゃうと英語のほうだってたまったもんじゃないだろう。

たとえば、英語をまったく知らない小学生くらいの子供がアメリカで一年くらい生活したとする。暮らし方にもよるだろうが、日本に帰国する頃にはかなりしゃべれるようになっているかもしれない。だが、その後また日本語環境に入り、英語を使わずに生活すれば、たちまちその英語力はさびついてしまうだろう。維持するための裏付けがないからだ。

やはり、日本語環境の中で英語を学んだり、一度身につけた英語力を維持したりするためには、自然な環境の代わりとなる「芯」のようなものがどうしても必要になると思う。芯となるからには、ちょっとやそっとのことではくずれず、しかも応用がきくものでなければ意味がない。

いったい、何が芯になるのか。

まずは「文法力」がそれだと私は思う。
もちろん、文法のための文法であってはいけないし、文法を勉強すること自体が目的になってしまったのでは本末転倒もいいところだ。あくまでも英語を使いこなすためのきっかけとして、文法をとらえなければいけない。
基本となる最低限の文法力を身につけ、その後に「自然」さに向かっていく。スタートが「不自然」なんだから、それが自然なのだと思う。

とか言って、この話は続くのであった。

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日本人の英語力(2)

さて、日本の英語教育である。

確かに問題は多いといえる。実際、自分の教室で中学生や高校生を教えていると、「ここ、なんとかなんないかなあ……」なんてことがたくさんでてくる。特に、中学生用教科書では、単語の選び方、話題の選び方、基本文型用の文、ジョーク(?)など、作成者のセンスを疑ってしまいたくなるようなことがたびたび、ある。変に無理するよりは、いっそ昔の硬派な教科書のように、これでもかとばかりに同じような文を並べまくった方がまだいいんじゃないか、なんて思ったりもする。

でも、日本の英語教育って、そんなにひどいんだろうか?

良くはないが、悪くもない、というのが私の見方だ。諸悪の根元はテストのあり方であって、少なくとも、中学校では、英語の基礎力を植え付けようとする意味でとらえると、そんなに悪いやり方には見えない。

日本の英語教育はしょうもない、と言ってる人たちは、じゃあ、生徒たちをどんなレベルまで持っていったらいいと考えているのだろう。

あいさつ程度の英語でいいと言うんなら、それだけやっていればいい。別に反対はしない。

でも、実生活で必要となる英文をそれなりに快適に読もうとしたり、ある程度内容のある会話をしようとしたりするのなら、フィーリングだけの英語教育では無理があることは、たぶん英語が堪能であろうそういった人たち自身がいちばんよくわかっているはずなのになあ、と思う。

とはいえ、別にすべての人が英語を切実に必要とするわけではないのだ。それに、中学生の時点で、自分が将来どれほど英語を必要とするかなんてことは、わかったもんじゃないだろう。

だからこそ、中学校では、文法を中心とした英語の基礎を指導することに意味があるんじゃないかと思う。学校教育としての英語は、ここまででいいだろう。

そこからもっと上をめざすかどうかは、つまるところ本人次第なのだ。そして、いざ「その気」になったときに、なんとかなりそうな、よりどころとなる基礎があるのとないのとでは、大きな違いが出てくるはずだ。

私自身、まあ、それなりに(あくまでも「それなりに」だよん)困らない程度の英語力はあると思うが、留学もせずになんとかなったのは、学校英語を経たおかげだと思っている。(なんて言いながら、実際、中学や高校でどんなことをどんなふうに習ったのか、さっぱり記憶にないんだけど…) 学校英語も、ちょっとばかり回り道をしたかな、ぐらいの認識だ。今、英語をバリバリ使って活躍している人たちも、同じようなパターンが多いだろう。

というわけで、まわりにまわって、本題の「日本人の英語力」である。(笑)

日本人の英語力って、そんなに悪くはないと思う。というか、「潜在的英語力」は、かなりのものじゃないかな。語順も文字もまったく違うという条件も考え合わせれば、むしろよくやっているほうだろう。「話せない」のは、ただ、本当に「その気」になってトレーニングをしていないだけの話だ。TOEFLの点数が最低レベルだということも最近よく話題になっているが、受験母体をちゃんと比較検討しなければ、それだけで日本人の英語力が劣っているとは決めつけられないだろう。

今後、インターネットなどで本物の英語に接する機会がますます増えるだろうし、そういった必要に迫られれば迫られるほど、日本人の英語力は花開いていくのではないかと、密かに期待している今日この頃なのであった。

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子供のセンス

子供は知っている単語で内容をつかむが、大人は知らない単語でつまずく。

英語への接し方について、感じていることである。特にリスニングで、この傾向は顕著だと思う。

とにかく子供たちの「語学センス」には驚かされる。「知らない単語はどうでもいいから、全体的にどんな感じの内容なのかあててみよう」と言って英語を聴かせると、本当にその通り実行する。「本当にその通り」に実行できるのがすごい。ちょっとレベル的に難しいかなと思えるような英語でも、ちゃんと内容をつかんでいたりすることがある。

これはいったいなんなのだろうと思う。

子供の頃は、日本語だろうが英語だろうが何語だろうがとにかく自然に受け入れられる準備ができているのだろう。それが年齢とともに母国語やいろんな知識の干渉を受けるようになり、素直に外国語に接することがむずかしくなってくるのではないだろうか。

子供といっても、よけいな雑念に惑わされずに英語を受け入れられる傾向は、当然といえば当然なのかもしれないが、年齢が下がるほどに強いように思う。私は小学生からしかみていないが、初年度クラスでいえば、1年から3年くらいまでの子供たちは実に「自然」だ。単語なんて、いとも簡単に覚えてしまう。英語の歌なら、2回か3回聴かせると真似をして歌い始める。もちろん歌詞は正確ではないが、そんなことを気にせずに歌うのがすごい。いい耳をしている。発音もちゃんと雰囲気をとらえている。

同じ初年度クラスでも、4・5年になるとちょっとパワーが落ちる。6年になるともういけない。たったひとつしか違わなくても、5年生と6年生の差ってけっこう大きい。

そんなところから、小学生から英語を始めるのなら、「感覚的」に英語とつきあう能力をのばし、年齢が上がるにつれて徐々に理論的な要素を増やすようにするといいと思うのだ。中途半端に理屈を教えてしまうのは、あぶない。だから、たとえば幼いうちから検定試験の類のコレクション集めに走らせたりするのは、なんだかなあと思う。試験のための英語力だけになってしまう危険性もある。そうなってしまうと、いずれ超えられない壁にぶちあたることだろう。

逆に大人の場合は、理論と知識を最大限にいかすのが得策だ、というか、子供のセンスに対抗するにはこれしかない。ただし、実戦練習の場では、子供たちの態度を手本にしたい。

大人の英会話のレッスンで、英語で話しているときに、「『ひどい』って、英語でなんて言うんでしたっけ?」といったようなことを「いきなり日本語で」聞かれることが以前によくあった。

これは、はっきり言って困っちゃうのだ。

まず、日本語と英語がなんでもかんでも一対一で対応しているものだと思っている態度がまずい。それに、何をどんなふうに『ひどい』と言いたいのか、何も言わないうちに私にわかれってのも無理があるぞ。それから、ひとつの単語、それも日本語の単語にこだわってドツボにハマっちゃってるのもまずい。そしてなにより、英語を話している最中に日本語で話し始めちゃなんにもならないっしょ。リズムが崩れるし、シラけちゃう。

間違いを恐れる、完璧性を求める。こんなことが上達の壁になっている。英語を使いこなせるだけの知識は十分に持っているのにもったいないなあと思う。注意してくださいねとあらかじめ言っていても、いざとなるとなかなか実行できない。大人の場合、英語の知識とかいう以前に、英語に接する心構えをなんとかしなければいけないだろう。で、これがものすごく大変だったりする。発想の転換というか、子供たちの態度に学ぶべき点は多い。

子供達には、英語と自然体でつきあえる可能性が備わっている。その可能性を変な方向に持って行ってしまっては大変だ。昔は神童で今はただの人、というような言い方があるが、小学生に英語を指導する場合、そのようなパターンにさせてしまっては元も子もない。心してかからねば。

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セコさと柔道と

ナイショの話だが、私は柔道を習っていたことがある。小学5年か6年の頃だ。町が主宰していた道場だったような気がするが、詳しいことは覚えていない。なぜ通いはじめたのかも覚えていないが、体が小さかったので、きっと強くなりたかったのだろう。

通いはじめて間もないある日、昇級試験があり、なぜだかわからないが私も受けることになった。試験内容は、実際に試合をして判断するというものだった。試験を受けると言っても、それまで習ったのは「受け身」だけ。技は何も習っていない。つまり、「投げられ方」はわかっていても、「投げ方」はわかっていなかったのだ。そのこともあってか、試験の前の練習のとき、指導者が、私と同い年の男の子に「背負い投げのやり方をちょっと教えてやれ」と指示し、はじめて技を教わったのだった。即席である。

そんなこんなで、本番の試験がはじまったのだが、なんと相手は直前に技を教えてくれたその男の子だった。こともあろうに「師匠」と対戦することになったのである。

師匠はぐっと私の襟をつかむと、いきなり背負い投げを打ってきた。さすがである。私は「ひぇ~」と思ったかどうかわからないが、ともかくぐっとこらえた。その瞬間、相手はコテッとあお向けに倒れた。

「一本!」

「…へ?」

タイミング良く、切り返しのような形になったのだ。師匠も油断していたんだろうなあ。とにもかくにも、このラッキーな勝利で、私は柔道「5級」をもらったのだった。全国的に通用するものかどうかはわからないが、ともかく「5級」なのだ。帯も「紫帯」をもらったのだが、これも、そういうものなのかどうかはわからない。その後、数ヶ月ほど通っただけで柔道はやめてしまったのだが、「習い事」をしたのは後にも先にもこれだけだったので、印象深い出来事ではあった。

柔道といえば、今回のオリンピック。って、わざとらしいフリではあるが、篠原選手の試合の「疑惑の判定」である。

最初見たときは、相手のドイエ選手の体がクルッと回転して、背中から落ちたので、「完全な一本じゃん」と思った。が、その後テレビで何度も繰り返されるシーンを見るうちに、篠原選手の倒れ方もちょっと気になるようになってきた。あれをどう判断すべきかは、「5級」の目にはわからない。少なくとも、相手より不利な倒れ方ではなかったとはいえる。百歩も千歩も譲った最悪の見方でも「同体」であり、ドイエ選手にポイントを与えるのは客観的に見てもおかしい。

だいたい、ひとりが篠原選手に「一本」で、あとのふたりがドイエ選手に「有効」なんて、そんなハチャメチャなジャッジがあるのかいな。これじゃ、審判の資質が問われてもしょうがないだろう。

判定については、いろんな見解があるんだろうけれども、個人的には、あのときの篠原選手のリアクションには説得力があると思う。一本をとったと、両手をあげて喜びをあらわした、あの姿だ。もちろん、だから篠原選手の一本勝ちだという根拠にはなりえない。だが、ハッタリでそんなアクションをするような、セコい選手ではない。証明はできないが、確信はある。

それにしても相手のドイエ選手である。日本の山下監督が「疑いようのない判定」について抗議したのは「横暴」だと、フランスに帰国してから言っているそうだ。

確かに、審判が畳からいったん降りてしまえば、その勝負は確定し、変更は一切できないというルールがあるそうだから、山下監督の猛烈な抗議は理不尽なことだったのかもしれない。

しかし、である。ドイエ選手はあの判定がおかしなものではなかったと「本気で」思っているのだろうか。あの瞬間、自分の体が裏返しになり、背中から畳に落ちたことはわかっているはずだ。自分の掛けた技がまだ生きていたと考えたにしても、相手より有利な形で倒れたとはとても言えないような状況だった。そんなことはやっている本人が一番わかっているはずなのだ。それを「疑いようのない判定」と平気で言ってのけるメンタリティ。これには非常に興味深いものがある。

フランスのマスコミの対応も、同様に興味深い。判定についてはほとんど問題にせず、ドイエ選手を「柔道界の神話」と絶賛しているという。やれやれ。さらに、「弱いから負けた」という篠原選手の談話が、「ドイエ選手より」弱いから負けた、というニュアンスで報じられているようで、なんだかコミュニケーションの難しさを感じさせられる。もちろん、その談話は日本人に向けられたものだろうから、篠原選手に責任はない。

今回、オリンピックの柔道の試合をいろいろ見たが、「柔道」が“JUDO”になった時点で、まったく別のスポーツに変わってしまったんだなあと感じることが多かった。これはしかたのないことなのかもしれない。だから、柔道の「精神」を期待しすぎてもいけないのだろう。
<10/02/2000>